“「悩む理由が値段なら買え、買う理由が値段なら止めておけ」”
“「そのなかを通過することによって、認識の組み換えが起こるもの」が小説だと思ってます。”
“文庫本1冊を3年間かけて読み込む授業を行なう伝説の国語教師がいた。生涯心の糧となるような教材で
授業がしたい、その思いは公立校の滑り止めに過ぎなかった灘校を、全国一の進学校に導き、数多のリーダーを生み出すことになった――。教師は、文庫本の一節を朗読すると、柔らかな笑顔を浮かべ紙袋を取り出した。生徒たちは、今日は何が
出てくるのか、と目を輝かせる。出てきたのは赤や青、色とりどりの駄菓子だった。教師は、配り終わると教室を制するようにいった。
「もういっぺんこの部分を読みます。食べながらでいいので聞いてください」
読み上げたのは主人公が駄菓子屋で飴を食べる場面。
〈青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると――〉
生徒の一人はこう呟く。
「普通なら飴を噛み折る音って『ぽきん』『ぱきん』だけど、確かに『こっきり』のほうが優しくて甘い味の感じがでているなあ……」
灘校を東大合格者数日本一に導いた「銀の匙」教室の授業風景である。教科書は一切使わない
国語の授業。文庫本『銀の匙』(中勘助)1冊を横道に逸れながら中学3年間かけて読み込む。前例なき授業を進めたのは橋本武先生、御年98歳。50年間教鞭を執り、昭和59年に同校を去った。
橋本先生が退職して27年を経た。だが、今も「銀の匙」教室は、伝説の授業として語り草となっている。では、橋本先生が生徒たちに植え付けたものとは? 橋本先生はこう語っていた。
「“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。それは“生きる力”と置き換えてもいい」
教科書を使わない、一つの言葉につき脱線する授業に生徒の戸惑いがなかったといえば嘘になる。
あるとき生徒はこんな質問をした。「先生、このペースだと200ページ、終わらないんじゃないですか」
橋本先生は教室を見渡した後、静かな口調でいった。
「スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります。何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります。そのことはいつか分かりますから」
言い終わると、頬を緩め、再びプリントを配り始めた。
東大総長・濱田純一氏は、このとき教室にいた生徒の一人だ。いつか分かりますから――その言葉通り
橋本先生の教えを財産にしている。「改めて素晴らしい授業だったんだなぁと。僕らが大学で原書講読をやる時のやり方と似ています。一つの
”
言葉に拘ることでその背後に広がる概念や感覚や考え方と繋がってくるわけです」
“1個の終わりに必ず次の始まりが
含まれてないとだめだ”
“某とかやいひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。”
名もなき路上のアナーキストが、「生きているのがばかばかしくなっちゃた僕でも、空を見て放心していると日々の移ろいに名残惜しいなんて思っちゃいます」と言っていたのは、当たってると思った。
(via yellowblog) (via starcat) (via petapeta) (via gkojax) 2009-05-11 (via gkojay) (via futureglance)“1次元:線で表現される世界
2次元:面で表現される世界
3次元:空間で表現される世界
4次元:空間と時間で表現される世界(空間と時間を同時に認識できる意識、天国と地獄がある)
5次元:空間と時間と精神性で表現される世界(精神性も同時に認識できる意識)
6次元:空間と時間と精神性と理想で表現される世界(価値基準を確立し、認識できる意識)
7次元:空間と時間と精神性と理想と影響力で表現される世界(役割意識そのものの意識)
8次元:空間と時間と精神性と理想と影響力と計画で表現される世界(時代精神そのものの意識)
9次元:空間と時間と精神性と理想と影響力と計画と目的で表現される世界(価値そのものの意識)”
“シカゴ大学の行動経済学者Richard Thaler氏は、次のような問いを設定した。
映画を見に行こうとして、10ドルの前売りチケットを買いました。ところが、劇場に入ろうとして、あなたは自分がチケットをなくしたことに気付きました。(予約席ではなく、払い戻しはできません。)あなたは、もう一度10ドルを払って映画のチケットを買いますか?
この問いに対して「イエス」(もう一度買う)と答えた人は46%にすぎなかった。一方、次の似たような問題では、全く別の反応が見られた。
料金が1人10ドルの映画館に、映画を観に行きました。劇場でチケットを買おうとした時、あなたは自分が10ドル紙幣をなくしたことに気付きました。あなたは、10ドルを払って映画のチケットを買いますか?
こちらの質問では、88%の人が映画のチケットを購入すると答えた。どちらの例でも「失った金額」は同じなのにだ。この劇的な違いは何に由来するのだろうか。
Thaler氏は次のように説明する。映画を観に行くという行為は通常、チケット代というコストと引き換えに映画を観る体験を手に入れる、ひとつの取引だとみなされている。チケットを再度購入すると、チケット1枚に20ドルの「コスト」がかかることになり、映画の料金としては割高に感じられる。これに対し、10ドルの現金をなくすことは映画の「メンタル・アカウンティング」には含まれていない。このため、映画代としてもう10ドル出すことは苦にならない、と。
[メンタル・アカウンティング(mental accounting、心の会計)とは、Thaler氏によって提唱された概念。人は、同じ金銭であっても、その入手方法や使途に応じて、(時に無意識に)重要度を分類し、扱い方を変えていること]
脳がメンタル・アカウンティングを行なうために、われわれは同じ金額でも扱いを大きく変える。上の実験では、2つの互いに矛盾した判断が行なわれたわけだが、これは古典派経済学の重要な原則に反している。つまり、「1ドルはつねに1ドルの価値を持つ」という前提だ。
Thaler氏の別の実験では、「価格15ドルの計算機を5ドル安く買えるなら、車で20分遠回りをしますか?」という質問が行なわれ、回答者の68%がイエスと答えた。これに対し、「価格125ドルの革のジャケットを5ドル安く買えるなら、車で20分遠回りしますか?」との問いに、イエスと答えた人はわずか29%だった。つまり、大きな買い物においては小さな金額は重要とは思えず、絶対的な金額(5ドル)よりも、メンタル・アカウンティングのほうが、判断にとって重要だったわけだ。
この原則を当てはめれば、なぜカーディーラーが要りもしない付属品をあれこれ付けて車を売ることができるのか、なぜわれわれが高額な電子製品を買うとき、要りもしない保証書にまんまとお金を払わされることが多いのか、その理由を説明できる。
”
“雑誌プレジデント3月号の記事より
東京大学大学院薬学系研究科准教授 池谷裕二氏(脳科学の著書多数)のハナシ
以下、引用・・・
身体は脳の支配下にあると思われがちですが、本当は逆で、カラダが主導権を握っています。
進化の過程を思い出してください。脳とカラダのどちらが先に発達したか。もちろんカラダです。
カラダのない動物はいませんが、脳のない動物はいくらでもいます。脳は進化の歴史では新参者なのです。
「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」、「やる気が出たからやる」のではなく「やるからやる気が出る」のです。”
“これ、Twitter に慣れた人に是非試してもらいたいんだけど、ノートにあらかじめ140字くらい書けそうなスペースで吹き出し作ってその中に書くようにすると異常にメモがしやすいことに気づいた。”